ゆーきゃん 対談 0(2017.11〜)

2022.04.01

0-1.よしむらひらくからゆーきゃんへ(2017年11月)

ゆーきゃんさま

おつかれさまです。よしむらです。
先に話をさせてもらっていた対談/インタビュー企画の件ですが、企画自体の説明の意味も込めてこの最初のメールのやり取りから公開する前提とさせてください。

この企画を考え始めた時にいくつかあったテーマを先にまとめてお伝えすると、
「新作などにまつわるいわゆるプロモーション記事ではなく、永久保存版とすることのできるものを目指す。また文量の不足は寂しいものと捉え、完結しないことは厭わず、またやりたくなったら続きやろうねの精神でかかる」
というようなことになります。もちろん実際に話をして、企画を進めていくなかで当初のイメージから逸れていくことがあったとして、それも特に問題とは思わないのでどうか構えず、万事そのときのアレでお願いします。
特定の作品について語ってもらうことを目的としない、ということは則ちテーマが定まらずぼやっとした話に終始してしまうということにもなりかねないので、会って話す前にある程度どんな話をしようか、最低限のとれ高を担保するための材料は用意しておきたいという気持ちもあっての、事前の書簡の交換のお願いをしたいです。
どうぞ、よろしくお願いします。

ゆーきゃんとの出会いは古く、はじめにおれがイベントに呼ばせてもらったのは、あれは確か2008年だったと記憶しています。その前年に、くるり佐藤征史さんが主宰するノイズマッカートニーレコードからゆーきゃん with his best friendsとして出したアルバム「sang」を聞いたのが、まずおれがゆーきゃんを一方的に知ることになったきっかけ。当時20歳のおれから見たゆーきゃんはいわゆる「あちら側」のメジャーなミュージシャンでした。高校生の頃に送ったデモ音源を佐藤社長にweb上で紹介してもらったということがあったとはいえ、逆にだからこそノイズマッカートニーの動向を漏らさずすべてチェックしていたような、いわゆるキッズらしさのようなものがおれにも余るくらいあった頃のことです。マネージャーが背中を押してくれなければ上に書いた2008年のおれのイベントへの出演オファーをする勇気も出なかったと思います。そう考えるとやはり、知り合ったのが2008年という言い方をしていいものか迷うくらい、立場や精神的な進度とでもいうのか、とにかくあらゆる面で差のある関係性でのスタートでした。
それが今ではすっかり、とでも続きそうな書き方をしてしまいましたが、おれも30に(なんと、出会った頃のゆーきゃんの年齢を超えてしまいました!嗚呼)なり、それなりにわかることが増えてきた今も、人間ゆーきゃんへの尊敬と興味はむしろ増しているように思います。だいぶ前に読んだインタビューでポールサイモンが(確かベスト盤を出すにあたって来し方振り返り、ということだったと思います)「当時信じていたものの多くを今自分は全く信じていない」というようなことを言っていて、その言葉を折に触れて思い出し噛みしめる日々、それこそ9年前と比べると価値観がほぼ全トッカエと言ってしまえるような変化の自覚があるにも関わらず。それはもちろんゆーきゃんが、単に大人になれば理解できるようなありきたりな行動原理で生きている人ではなく、どこまで追いかけても読み切れない面白さを湛えたひとであるということがまずひとつ。それから、交友関係のとにかく広いゆーきゃんが、しかし凡百の年少のミュージシャンのうちの1人であるおれに対してもこの9年間ずっと真摯に対応してくれ、関係性を更新し続けるのに付き合ってくれているからということだと思っています。

企画の始まりにゆーきゃんにお相手をお願いしようと思った理由は、一人め、というよりもおれとしてはこんなような企画をやっていこうと考えてるんだけど、どう思う?とまずゆーきゃんにこの企画自体の作り方について相談したいような、そんな気持ちでお願いをしました。実際にこの、対談前に書簡のやりとりをする、という発想自体が、おれからゆーきゃんに企画を持ちかけたときのやりとりの中で出てきた方法ですね。まずはともかくゆーきゃんに訊いてみなきゃ始まんねえ、というようなところです。
突飛な発想ですが血の繋がらぬ兄弟というものがあり得たとして、おれは兄に甘えるような気持ちでゆーきゃんに相談をしたい、と思うことがたまにあります。実はゆーきゃんはおれの父母の大学の遠い後輩に当たるのですが、その事実の通りに、“この人は親の後輩だ”という感じ方も強い。当然ほかのどの先輩ミュージシャンに対してもそんな感じ方はしません。

さてそんな関係のゆーきゃんといま改めて話をしたいことは何か、これは少し難しい問題です。上に書いたように時折“ああ、これをゆーきゃんに相談したい”と思うことはあっても、実際に顔を合わせている時には、お互いに饒舌になるということはこれまで案外少なかったように思います。「言わなくてもわかる型」、あるいは「相手が何を考えているのか想像する方が楽しい型」とでも言うべき静かにアクロバティックなコミュニケーションを続けてきた、とおれは勝手に思っています。共に自分を「話し言葉でなく、書き言葉の人間」と捉えている人間同士らしく、相手のことについてブログを書き合うという、平安貴族が恋文として詠み合う歌のような、ヴィジュアルイメージ的にはどことなく、本当にいるのかもわからない遠くの星の知的生命体に明滅の信号を送るようなかたちの恥ずかしいやり取りもしてきました。いまも、気付けばこの文章は明らかにゆーきゃんに直接届ける形よりは第三者、読者に向けた言葉のとり方になっている…
だからこそこうして改めて対談を申し込み、そこで直接話をしてみたいその内容ですが、おれはずばり暴力というものについて話してみたいと思っています。「これは答えを急がず、先の人生をかけてじっくり考えていこう」という問題は人それぞれにいくつもあるかと思いますが、おれの場合そのうちの大きな1つが暴力というものについて、です。暴力といっても本当に豊かな意味を含んだ言葉で、まあ具体的なことは直接会った時に話ができたら。ゆーきゃんがもし暴力という言葉なんてどんな文脈においても口にするのも嫌だというなら触れることはしませんが…(もちろんこの場合もおれにとっては、その胸の内を想像して時間を過ごす楽しみを与えてもらうことになります)。

あともうひとつゆーきゃんと特に話をしたいこととしては、音楽やってなかったら何してた、ということと、こちらは現実の今に続く話として未来のことを聞いてみたいです。おれが今ちょうどよしむらひらくとしての音楽活動をちょっと止めてみようとしているタイミングだから、じゃあ例えば今後音楽以外のことに割く時間が多くなっていったとして、その生活を続けたらどんな風になっていくのか?それを考えてみることは、これまで音楽活動をすることによって得てきたもの、制限されてきたものを想像の中で切り離して、音楽に依存しない、音楽をやり始める前の自分がそもそもどんな奴だったのかということを浮き彫りにさせられるのじゃないか、というようなことを考えています。もちろん、おれは音楽活動を休むというチャレンジが、いずれ再開する表現活動に与えるフィードバックを強く期待していますが、今は敢えて再開する時のことすらなるたけ考えないようにしようと思っています。そこまでやり切らないと俯瞰の視点は持てないだろうと思うから。

それから、ここからは禁句を連発するのですが、おれは常々、「詩というものの読み方がわからない」と感じていて、それを是非この機会にゆーきゃんに教えてほしいと思っています。いまゆーきゃんが教師として教えている子たちよりもおれがいい生徒になれるかはわかりませんが、歌詞として歌に乗る前提で書かれたものでない詩について、できればもう厚かましいついでに、ことはじめに最適な詩人五選、みたいなものもテキストとして用意してもらって、じっくりと。

本番前にすこし長くなってしまいました。もちろん簡単で構いませんので、おてすきで返信頂けると嬉しく思います。
それから、ページ作成のための近影お写真、プロフィール文、サイトURL等ご指定のものがあれば一緒に送っていただけますでしょうか。お手数をおかけします。

それでは、どうぞよろしくお願いします!


0-2.ゆーきゃんからよしむらひらくへ

ひらくさん

いつからか「よしむらひらく氏」の親称が「ひらくさん」になりました。
お手紙ありがとう。そして、大事な節目にぼくを呼んでくれてありがとう。(注:2017年11月24日のよしむらひらく活動休止イベント)

きみのことを、とても頼もしく感じてきました。
ぼくが踏み込めなかった(勇気も、才覚もなかった)道へ踏み込んでいこうとするひらくさん。ある種の自己陶酔なしには進めないその道を、できる限り醒めたままでまっすぐ、できる限りど真ん中を歩こうとする-それは、おそろしく難しいことだと思います。そして、よしむらひらくという歌うたいのありかたは、まさにそういう目覚めかたであり、歩みかたであると、そんなふうに捉えていたのです。

でも、いつの間にかきみは、夜風に吹かれて歩いて行くだけではなくなったのですね。
風を受けて、風を切って、飛び立つことを覚えた。
今度はどんな景色を見つけるのだろう、どんなふうにそいつを話してくれるのだろう、そう思うととてもわくわくします。

あまり話さなくても、普段近くに居なくても過不足ないように感じていたのは、きっと歌があったからということもあるでしょう。どんな言葉のやり取りよりも、ぼくにとってはきみの歌がきみを知るために最も確かな軌跡で、血管で、羅針盤でした。そういう意味ではきみのうたは船に似ていたのかもしれません。たくさんの人がその船に乗って遠くへ旅をする、その思い思いの表情を、きみが「一旦音楽から離れる」と決めた今ですら、やっぱりぼくは夢見てしまうのでした。

ひるがえってぼくは、自分の歌を予言のようなものだと思っています。話し手すら何を言っているのか分からない、引用やほのめかしに埋もれ、でも確信と予感そして記憶に満ちた、予言のようなもの。いまでも時々、15年前に書いた曲に後ろからぶん殴られるような気がするんです。振り返ってみたってもちろん誰も居ないんですが。

暴力について-いいですね。ぼくは最近、引き裂かれるとはなにか、受け入れるとはどういうことか、フェアであることは前提か背景か、解釈とは創造かそれとも解決か、そんなことを考えています。たぶん話してみると近い線をなぞるんじゃないかな。

ところで、この仕事を初めてすぐに、もうめちゃくちゃに打ちのめされて、一生無縁だと思っていた自己啓発本のたぐいに救いを求めてみたことがありました。ほとんどが(当然のことながら)ちっとも役に立たない紙とインクの無駄を結晶化したみたいなものばかりでしたが、その中でもごくわずかに、はっとさせられる一言が潜んでいたんです。そういやポールサイモンは「予言は地下鉄の壁に落書きされている」とも謳ってますね。パラレルワールドの話が、何か新しい扉を開くかもしれない。

詩の読み方については・・・じつはぼくも分からないんです。ひとくち囓った瞬間にぴりっとくるか、甘いか苦いか、そんな感覚でしか掴んでいません。そんないい加減な読者ですが、日本人なら、三好達治、田村隆一、吉増剛造、黒田三郎、長田 弘、あたりにはそういうびびっと来る詩が多い気がします。吉野弘、萩原朔太郎、谷川俊太郎(こう並ぶと、とても教科書的ですね)もいいなあ。古本屋で100円コーナーよくある『戦後詩アンソロジー』とかそういう感じのシリーズを出鱈目に買って帰る、みたいなこともします。今度適当にめくって話をするっていう遊びやってみましょうか。

あっ、でも、いま気づいたんですが、実はこのメールの本題は「アー写とプロフィールを送ってくれ」だったのかな・・・送ります。